(8)

 ふと、月が口を開いた。

「マット。僕も同じ心境だ」

 マットは月を見た。月は窓の外に視線を投げたまま、まるで自分に言い聞かせるかのように言葉を続ける。

「この世に存在する激しい対立や葛藤を内包したまま、進むべき道を見失わない世界観や覚悟が僕にはまだ備わっていない。竜崎は天才だ。残念ながら、僕には竜崎のようなひらめきはない。だが、補佐官としてはそこそこやれると思う。どちらが優っているとか劣っているとかいう問題ではなく、それが与えられた『分』なんだ。たぶんお前も、僕と同じことを言っているんだと思う」

 月がそんなことを言い出すのは初めてのことだった。Lは興味深げに月を見つめた。だが月の口調は穏やかで、Lの手の内に堕ちまいとするかつての意地っ張りな様子はこれっぽっちもなかった。

「これは一種のトートロジーになるかもしれないけど、理想的な世の中というのはLを必要としない社会だと思うんだ。本当に強い社会なら、警察や軍隊といった暴力的な部分は逆に弱くなる。Lなんてシステムを必要としない世界。僕たちが目指す究極の世界だよ」

 Lはそれには何も言わず、ただ口端を上げただけだったが、ふと月に尋ねた。

「月くんの目指す、強い社会というのは?」

 月は珍しく腕組みして真剣に考えていた。理想を言葉にするのは難しい。散々思案した後、やっとのことで口を開く。

「そうだな・・・貧困のない明るい未来・・・かな?」

「三流政治家が掲げそうなスローガンですね。ついに立候補ですか」

 そのずけずけとした物言いに、月はLを軽く睨みつけた。

「いいよ、三流だって。教育だってカネだって愛情だって、僕は足りなさすぎるのが一番人間ダメにするって思ってるんだ」

「そうですね。私もそう思います」

 仲がいいのか喧嘩しているのか、傍目からは見当がつかなかった。マットはそんなふたりを惚れ惚れと見ていた。主役も脇役もない。どんな役割を演じようと、このふたりはあくまで対等だ。そしてこの負けず嫌いのふたりは、今後も決して離れることはないのだろう。

「何だか妬けるよ。ワタリも引退だって聞いてるし、これからは世界レベルでふたりの最強タッグが見られるってわけだ」

 だが、月とLはじろりとマットを見た。マットは思わず息を呑んだ。

「妬ける?とんでもない。今まで一緒に捜査なんてしたことなかったし、いつもバラバラだった。今後もどうなるかわからない」

「一緒にいると、なぜか怒られてばかりいるような気がします。食い散らかすとかこぼすとか」

「それは誰が悪いんだ?」

 マットは笑いながら立ち上がった。車内を流れるグジャラート語は、まもなくアジメール到着を告げていた。

「じゃ、行くよ」

 マットはひとり列車から飛び降りた。わずかな停車時間だが、なんとか商売をしようとチャイや果物やサモサを売る男たちや、わずかな銭をねだる乞食が車内に乗り込み、車内はたちまち賑やかになった。ホームに降り立ったマットは、窓越しに手を伸ばした。月はしっかりと握りしめる。

「ライト。借りがたくさんできたな。いつか返すからな」

「当てにしてるよ。頑張れよ」

 マットは照れながらLに言う。

「俺、Lのこと大好きだよ。変なところも含めて、やっぱり尊敬してる」

「ありがとうございます。金髪の敬虔なるイスラム教徒にもよろしくお伝えください」

 列車が動きだした。商人たちが急いでホームに飛び降りる。土埃が舞い上がり、マットは手を振っていた。

 すぐに見えなくなった。





 ふたりが降りる場所はまだ先だった。だが目的地ははっきりしている。ふたりはひたすら、灼熱の砂漠の中にぼんやりと浮かび上がる町を目指していた。この先は昼は影が砂に焼きつく。夜は凍るほど寒くなる。太陽が沈みかけていた。辺りはさえぎるものが何もなく、空も地平線もどこまでもオレンジ色に輝いていた。月は残念そうに言った。

「イスラマバードも酒が飲めないんだよな。でも意外と耐えられるもんだな。お前と暮らしてからこんなに酒抜いたの久々かも」

「耐えられなかったら、ただのアル中ですよ」

「言っとくが、お前が教えた酒だからな。インドじゃ毎晩、外国人専用バーに出入りしている夢ばかりみたよ。高級ホテルでも飲めないなんて、考えられないよ。有り得ないな」

「責任感じます。こんなに酒好きだったとは」

「お前に言われたくない」

 言葉が途切れた。窓の景色は緑がだんだん薄れ、どんどん茶色になっていく。

 月もLも黙ったままだった。ここまで来るのに、どれだけ回り道をしたことだろう。これからはふたりで、不可能の中の可能性を探し続けたい。目指すのは、夜神月もLも必要としない究極の世界だ。太陽の光や風の中に溶け込み、全てを飛び越え、自分が消えて本物の自由を手に入れるその日まで、ふたりはずっと走り続けることだろう。

 やがて月が口を開いた。

「とりあえず、イスタンブールで乾杯だな。あの水に溶かすと白濁する酒・・・」

「ラクですね。私も乾杯したい気分です」

 Lはいつもの座り方で、親指を下唇に押し付けた。

「これからはずっと一緒にいてくれるんでしょう?」

 Lの珍しくストレートな言葉に、月は爽やかに笑った。初めてお互いに触れたような、新鮮な感覚だった。

「そうだよ。ずっと一緒にいる。たとえ全世界を敵に回そうとも、ね」



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