(7)
その時だ。遠くの木陰で成り行きを見守っていた男が、周囲に人がいなくなるのを待って三人に歩み寄ってきた。三人は相変わらず駅長室の前にいたが、男が近づいてくるのを見て訝しげな視線を投げかけた。
「人を探してるんだろ」
「・・・・・」
藪から棒に、男は小声で尋ねた。
「お前らが探しているのは、アラビア語を完璧に操り、コーランを暗唱する金髪の勇者だ。それで間違いないか?」
そんな特技がメロにあったとは聞いたこともない。マットはええっ、と驚きの声をあげそうになったが、すんでのところでLに制止された。Lの漆黒の目がじっと男の姿を捉える。信用できる男かどうか、一瞬で見極めなければならない。いくら不躾な視線を投げかけられても、男は全く動じなかった。そこには強い信仰心を感じ取ることができる。やがてLは静かに口を開いた。
「その通りです」
「列車でアジメールまで行き、そこからジャイサルメール行きのバスに乗れ」
男が指示を出す。思わずLの口角が上がった。メロは既に協力者を得ている。メロがゲリラの一味に食い込んでいる証拠だった。そこへマットが違法捜査の詳細を土産として持ち込めば、これ以上争いを拡大させないためのいい材料となるだろう。全てはメロの交渉力にかかっている。そして、メロならきっと成功させることができるに違いない。
「わかりました」
Lが頷くと、男はそっと囁いた。
「アッラーのご加護を」
立ち去ろうとする男の背中に、Lは声をかけた。
「あなたこそ。アッラーのご加護を」
*
3人はアジメール行きの列車に乗っていた。二等車に冷房は入っていないが、ひとたび列車が走りだすと窓からの風が実に心地よい。
マットの行方にはタミル砂漠が待っている。そして月とLもイスラマバードに越境するという。先ほどの放射能騒ぎに関わったことから、完全にイスラム圏に逃げてしまった方が得策だという判断だった。
マットはしきりにメロに感心していた。
「すげえよ、メロ。あいつ何でもやるな。コーラン暗唱できるのか。しかも、金髪のイスラム教徒なんて聞いたことないぜ」
「相手の神話に入り込んでしまった方が、より相手の内在論理を理解できるということなんでしょう。昔から相手の懐に飛び込むことは得意でした。それにコーランによれば、キリスト教徒はアッラーの手足として働けますからね。たとえにわか教徒だったとしても、メロのやり方は決してでたらめではない」
Lは力づくで相手を叩きつぶすことよりも、相手の懐深く切り込む方法を好む。そちらの方が効果的だからだ。マットは「そうだよな」と頷いた。
「切れ者のニアですら、あのメロの行動力は真似できなかったもんな」
一時的にロザリオを隠し、砂よけの白い布で全身を覆い、ウルドゥー語だけではなくアラビア語も使いこなす姿はかなり様になるだろう。
金髪のにわかイスラム教徒が、厳かな顔をしてゲリラを率いているのかと思うと、なぜか三人の間に笑いがこみあげてきた。一番笑っているのがマットだ。月も笑いながら涙を拭った。
「笑いすぎだよ、マット」
「だってあいつ、ライトの婚約者と貯金を持ち逃げしたことになってるんだぜ?それが一方では、イスラム系反政府ゲリラを率いるアッラーから遣わされた金髪の勇者だっていうんだ。いったいどんな男前なんだよ、メロのやつ」
「まあ、当分アーメダバードには来ない方がいいかもしれないな」
またマットは笑いだす。だが笑いの発作が治まると、急にしんみりとした口調になった。
「本音を言うと、俺はCIAを使いこなすLやニアがうらやましいんだ。でもメロはそんなことはおくびにも出さない。あいつは偉いと思う」
だがLはしれっと言った。
「今、CIAって大したことないんですよ。テキント(Technical Intelligence)ばかりに頼っているので、どんどん知的基礎体力が弱くなっている。むしろメロのように、人の中にすんなり入り込むことのできる方が強いかもしれません」
テキントとは、衛星や盗聴機器などを使って情報を仕入れるやり方をいう。要するにCIAは機械にばかり頼り過ぎている、というのだ。大国アメリカにありがちな弱点。自分の頭と体をフルに使わなければ本物の情報など取れるはずもないことを、Lはよく知っていた。
「でもニアは、組織の力を過信する愚かな真似はしないと思います。モノは使いようです」
「そうだよな。ニアにメロ。あいつらすごすぎる」
マットは一瞬黙り込み、通り過ぎる窓の景色を眺めていた。だが突然、何かを決意したかのようにLに話しかけた。
「L、もしかして俺のこと怒ってる?」
「はい?」
Lは目を丸くしたが、マットの口調は真剣そのものだった。
「俺はLの後継者として育てられ、養護施設でいろいろな機会を与えられた。でも、ニアやメロのように本気で『L』を志向したことはないんだ。やりたいこととできることとは違う。最近、ますますその思いを強くしてる。俺は主役を張るより補佐役に向いてる。心底そう思うんだ」
詫びるような台詞を吐きながらも、卑屈な態度ではない。とっくに心に決めたことなのだ。その告白に、Lは口角を上げただけだった。
突然、窓の外に川沿いに広がるカースト最下層の大きな集落が広がった。藁と泥を積み上げただけの住居。風にはためいている真っ白な洗濯物。それがどこまでも続く。ここの住人たちは朝から晩まで洗濯の仕事だけをしている。洗濯人のカーストに生まれついた人間は、生まれてから死ぬまでずっと洗濯人だ。この絶望的な貧困の連鎖から一生抜け出すことはできない。
だだっ広いグラウンドで、子供たちがクリケットをしている。牛の群れが通り過ぎる。延々と続く線路の枕木の上を、大きな荷物を持った親子が歩いている。列車を見ると、嬉しそうに手をひらひらと振っていた。
月は頬杖をつきながら、その光景をじっと見つめていた。
そこには何も知らなかった「あの日」とは、全く違う風景が目の前にあった。ふと、月は胸が締め付けられるような気がした。
出会う人々は皆、悲惨だった。出会う人々は皆、高貴だった。出会う人々は皆、はなやかで美しく、そして荒々しかった。
かつて考えていたよりもずっと 世界は良かった。
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