(5)

 椅子にくくりつけられた男が目を覚ますと、マットは容赦なく尋問した。ここで何としてでも口を割らせなければ、メロに再会したところで何一つ進展しないだろう。身分証のホルダーには、シヴァ神のブロマイドも一緒に閉じられていた。この男は大多数のインド人と同じく、ヒンドゥー教徒だ。

「単刀直入に聞きたい。放射能物質をヤクに振りかけているのはどこだ?こんな危険な捜査に、どこの仲介業者が協力してる?」

「知らない」

「知らないはずないだろう」

 一警察官ならともかく、この男は諜報機関の人間だ。反政府ゲリラが違法捜査で窮地に追い込まれた挙句、助っ人を雇ったことも知っているはずだ。月は壁によりかかったまま、腕組みをして成り行きを見守っていた。

「まがりなりにも人の口に入るものだぜ。異物を振りかけるなんて、人体に何かあったらどうするんだ」

 宗教対立に異教徒の出る幕はないが、こればかりは見逃すわけにはいかない。捜査の成果を試すために人体実験を行っているようなものだ。これがどこまでエスカレートするのか誰にもわからないのだ。この追跡捜査で一定の成果が出れば、そのうち国内の「危険人物」全てを放射能で管理しかねない。一方、メロやマットに依頼をしたイスラム系反政府ゲリラも、資金源や人脈を根こそぎ奪われ暴発寸前だ。だからこそ、一刻も早い全容解明が必要だった。

 マットはポケットからきらりと光るものを出した。小刀だった。それを右手でくるりと回転させながら弄び始めた。相当使い慣れているな、と月は思った。マットに暴力はあまりにも似つかわしくなかったが、それでも様々な修羅場をかいくぐっているだろう。その辺のやわな人権主義者とは訳が違う。

「両手にナイフで穴開けて、フックから吊るしたっていいんだぜ。それともガムテープを口に貼って、股間をライフルで撃ち抜いてやろうか?どちらもすぐに死ねないぞ」

「殺せばいいだろう。苦痛も死も怖くない」

 マットの脅しを嘲笑うかのように、男はふふっと笑い始めた。

「目的は手段を正当化する。ヤクもテロも異教徒も許すわけにはいかない。世の中の悪を駆逐するためなら、俺はとことん戦う。正義を行う俺のことを神は常に見ている。そして悪行を働くお前らのことも、全てお見通しだ」

 その目には死の覚悟が定まっていた。日頃、かなり厳しい宗教的な訓練を受けているのだろう。耳や鼻を削ぎ落されようが、目をえぐりだされようが、どれほどの苦痛を与えようとも、この男が屈することはないに違いない。

「これ以上は駄目だ、マット」

 月が口を挟んだ。男の覚悟が本気かどうかは、目を見ればすぐにわかる。マットが振り向いた。

「死後の世界が神によって約束されている連中は強い。こいつは死ぬことなんか怖くないんだ。・・・その先に楽園が約束されているなら、何を恐れることがある?どんなに締め上げても、こいつは何一つ言わないだろう」

 男が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。マットは「くそっ」と吐き捨てるように言ったが、胸中で敗北を深く感じていたのは月の方だった。

 かつてノートで世界を変えようとした忌まわしい思いが蘇ってくる。だがそれは、「人間は死を怖がる」という大前提の上に立ったものだ。

ノートの論理は、神に護られているこういった信仰深い人間には通用しない。決して通用しない、のだ。月は唇を噛みしめた。

 その時だ。

「月くん。そういえば夕飯、どうなりました?あちこち歩き回って、お腹ぺこぺこなんですが」

 いつもの座り方でじっと男の様子を見ていたLの台詞は、この緊張感あふれる雰囲気にまったくそぐわなかった。月は唖然とし、マットはどう答えたらいいのかわからないと言った風で頭をかきむしった。今日は二回も同じセリフを言わなければならない。どういうことだ。

「あのさ、L。空気読んでくれよ。今、どういう状況かわかるよな?」

 どうしてこういう展開になったのか、先程Lには説明したはずだ。だがLは人差し指を咥え、きょとんとした顔をする。

「マットらしくもない。何だか怖いですよ?この人、かわいそうじゃありませんか」

「何言ってんだよ!!Lこそ、暑さのせいで頭おかしくなったんじゃないのか」

「お客様は丁寧におもてなししないと。ねえ、月くん」

 月は眉を顰めたが、何も言わなかった。Lは決して無駄なことはしないという確信があるからだ。Lは男に近づき、のっぺりとした顔を近づけてにんまりと笑った。猫背で黒髪の変わった風貌。丁寧な物腰にただならぬ雰囲気を感じ、男の目に緊張感が走る。

「あなたもお腹がすいたでしょう。一緒に食事でもどうですか。月くん、昨日のカレーがまだありましたよね」

 Lは漆黒の瞳を男に向けたままだ。そして堂々と告げる。

「とびきりおいしいビーフカレーです。絶品ですよ?」

 男の顔色が真っ青になった。恐怖のあまり身体がたがたと震え、開かれた目がさらに大きくなる。ヒンドゥー教では牛は聖なる生き物だ。だからこそインドでは、野良牛が大きな顔をして人混みの中を悠々と歩いていられる。ただでさえ殺生を忌み嫌うヒンドゥー教徒は菜食主義者が多い。牛肉だって?それを口にしたらいったいどうなる?約束されたはずの死後の世界は地獄だ。間違いなく業火の炎に全身を焼かれ、永遠に苦しむことになる。男はパニックになり、口をぱくぱくさせた。

 Lの視線を受けて、月はちらりと台所の方を見た。そして口角をあげる。

「ああ。確かにあのカレーは絶品だ。今、温めなおしてくるよ」

「ちょ・・・・ちょっと待て」

 狼狽した男に、月は悪辣な笑みを向けた。

「遠慮するなよ。僕はこれでも料理は得意なんだ。・・・無理にでも食わせてやる。その減らず口をこじあけてね」

 Lは、男の神への信仰心を完全に逆手に取ったのだ。男は束縛をほどこうと本気で暴れ始めた。だが椅子にくくられた自らの身体はびくともしない。そのうち、月が台所から皿にカレーを盛ってやってきた。部屋中に食欲をそそるような香辛料の香りがする。男は逃れようと必死にもがいた。椅子が男の身体をくくりつけたまま、がたんと横倒しになった。男は涙を流しながら全力で叫んだ。

「ま、待ってくれええええ!!言う!!何でも言う!!」

 Lが畳みかけた。

「それほんとですか」

「本当だ!!だ、だからそれだけはやめてくれ!!」

 マットはこの急展開に瞠目した。憎たらしいほどポーカーフェイスを保ち、死を覚悟した目をしていた男があっけなくも陥落してしまったのだ。冷静に考えれば、アーメダバードで牛肉など手に入るわけがない。台所にあるのは普通の野菜カレーだろう。だが本物の恐怖は冷静な思考力を奪う。世界は広かった。死よりも恐ろしいものがある人間がいる。経験の浅い自分の考えは、そこまで到底及ばない。

「L・・・あんたって、やっぱすごいよ。どこの誰よりも汚い手をたくさん知ってるよな」

 マットは呟くように言った。それはこの上ない褒め言葉のつもりだった。


back  next



galleryへ戻る
TOPへ戻る