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ダーダハリ階段井戸は、アーメダバード旧市街から北に2キロだ。井戸といってもかなり大規模な建築物で、数十段もの階段を降りるとやっと水を湛えた場所にたどりつく。建築学的にも価値のある16世紀の建物のようだが、それほど頻繁に人が訪れるわけではない。井戸の周辺では、暑さをしのぐために数人の男たちが昼寝をしていた。休日でもないというのに、のんびりとしたものだ。
月が階段井戸の入口に到着すると、どこからともなくマットが現れた。ロスで会った時と同じく、ゴーグルをかけ、赤と白のボーダーラインのTシャツを着ている。
マットは月に近づき、すっと煙草の箱を差し出した。
「よお、ヤガミ。吸う?」
「いや。煙草は吸わないんだ」
「真面目に答えるなって。頼むから、空気読んでくれよ」
「?」
マットは箱から煙草一本出したが、それを地面に取り落とした。いそいで煙草を拾う仕草をして、周囲を窺う。誰も追尾していないことを確認すると、マットは顔をあげた。
「点検か。悪かった」
マットの意図が読み取れなかったことを、月は詫びた。マットがこれほど周囲を警戒しているとは思いもよらなかったのだ。だがマットはたいして気にもしないといった風で、煙草に火を点けた。
「ここに来たのは、グジャラート州を拠点としているイスラム系反政府ゲリラ組織からの依頼なんだ。彼らの仕事が今、徹底的に手入れされてる」
「仕事・・・というのは麻薬取引か?」
マットはこくりと頷いた。グジャラートはパキスタンと隣接しており、さらに大麻が大量栽培されているカシミールにも近い。イスラム系ゲリラが貴重な活動資金を得るにはもってこいの場所だ。だが、その仕事が徹底的に荒らされているという。
「そのやり方が半端じゃない。根こそぎ、って感じなんだ。警察がやってくるのは麻薬取引の現場だけじゃない。麻薬を所持している人間なら、必ず捕まえる。まるで発信機が麻薬に取り付けられているみたいにね」
「有り得ないな」
「だろ?ひとりやふたり、裏切り者が警察にチクった程度でこんなザマになりはしない。とにかくすごいんだ。どんな巧妙な取引の手口も簡単に見つかってしまう。逃げても逃げても、ターミネーターのように追ってくるんだ。インド警察がアメリカや日本よりも有能な働きするって、そんなことがあり得るか?しかもデリーならともかく、グジャラートだぜ?どうもおかしいんだ。俺たちが受けた依頼は、その謎を解明することなんだ」
資金源が枯渇すれば、反政府ゲリラはどういう形で暴発するかわからない。誘拐事件や爆弾テロをさらに誘発する可能性もあり得る。
手遅れにならぬ前に「根こそぎ逮捕」のカラクリを解き明かすことが必要なのだ。だからこそ、メロとマットはこの依頼を引き受けたのだろう。近視眼的な考えでは、この世の混乱は決して解決しない。
「ヤクって、どんな形で取引してるんだ」
月が尋ねると、マットはパンツのポケットからプラスチックの小さな箱を取り出した。
「これがサンプルだ。この中にハシシが入ってる」
月は小箱を手に取り、ゆらめく金色の太陽の下に翳した。この程度のものならどこでも手に入る代物だ。特別の細工が施されているようには見えない。
「こいつに関しては調べたぜ。徹底的にスキャンしたけど、発信機のようなものは見つからなかった」
「メロもお前と一緒にいるのか」
「いや。あいつは依頼主に会うために、俺よりも早くこの国に来ている。だが、連絡とれないんだ。なかなか落ち合えなくて困ってる」
「落ち合えない?」
マットは笑みを浮かべた。月はその表情から全てを察した。
「そうなんだ。俺もどういうわけか追われてるんだよ。向こうは追尾のプロじゃないらしく、捲くのは簡単なんだ。ところがいくら捲いても、すぐに俺の居場所を突き止めてしまう。こんなことは初めてだ」
「お前が捲けないなんて、相手は相当のプロ集団だな」
「いや、何度も言うように、追ってくるのはただの警官なんだよ。秘密警察ってわけでもなさそうだし。ここののんびりした感じ、わかるだろ?俺たちが考えるようなプロなんていない。そいつらが麻薬に関してのみ冴えに冴えわたってる。不思議で仕方ない」
「確かに妙だな」
月はそう言うと、しばらく思案していた。
「・・・新市街のインターネットカフェにでも行くか。軍や警察について調べものがしたい」
「ここいらのコンピューター、繋がるのが死ぬほど遅いぜ。インドはIT産業大国だってのに」
「アーメダバードは西の果てだから仕方ないだろう。追われてる変な連中からお前が捕まらないように、何とか手を尽くすよ」
「頼む。あとメロも探してくれるととても嬉しい」
「ははっ、現金だな。今度はお前の方の借りが増えるぞ」
月は笑った。素晴らしい頭脳を持っていながら、マットは他人に警戒心を抱かせないところがある。月は、突然自分に弟が出来たような妙な気分になった。Lも可愛がったことだろう。
「ついでにチャイも飲もう。ここいらのマサラチャイはかなりうまいぞ」
チャイは紅茶の葉を煮出したものにミルクと砂糖をぶちこんだものだ。注文すると、ガラスの小さなグラスに入ったものがソーサー付きで出てくるが、現地の人間はソーサーにチャイを注ぎ、皿の液体を冷ましながら飲む。西インドのチャイはさらに香辛料が入っている。一杯たったの15円から20円ほどだ。暑さを乗り切るにはもってこいの飲み物だ。
「あんた、甘いの好きなの?」
「好きだよ。特に頭使うと、甘いものが欲しくなる」
月の言葉にマットはにやりとした。
「ヤガミ。それって誰かの影響?」