元ネタは真刈信二・赤名修「勇午」
2008.11.30.
反撃
(1)
インドの首都・デリーから列車で14時間ほど西に向かうと、グジャラート州アーメダバードという町に行きつく。いったいどこからわいてきたのかと思うほど多くの人々が溢れだし、オートリクシャや車のけたたましいクラクションが鳴り響く。じりじりと照りつける太陽と、まきあがる砂埃と、香辛料の独特の香りがたちこめる混乱極まりないこの場所は、ヒンドゥー教が主流のインドでも珍しいイスラム教が色濃い土地だ。朝になると、点在するモスクからコーランが響き渡り、たとえ異教徒であっても敬虔な気持ちにさせられる。そしてまた普通の騒音に満ちた一日が始まるのだ。
モスク近くの市場から旧市街に借りたアパートメントの部屋に帰宅すると、月は大きな買い物袋を机の上に投げ出し、すぐにバスルームに直行した。乾燥地帯と湿地帯に囲まれたこの土地は、酷暑期でなくともかなり暑い。外を歩き回ると汗びっしょりになる。それゆえに、一日に何度もシャワーを浴びる羽目になる。一緒に来たはずのLは、朝から行方不明だった。映画館にいるか、さもなければ川でものんびり眺めているのだろう。この近くにはガートがあり、川べりで人の遺体をよく焼いていた。生と死が隣り合わせにある光景を見つめているだけで、忘れかけていたものが取り戻せる気がする。
とにかくふたりが誓い合った当面の目標は、仕事から離れて「何もしないこと」だ。そしてLは、月が考えていたよりも「何もしないこと」がうまかった。切り替えの早さは才能だろう。
月は部屋の窓を全て開け放した。むんとする熱風とやかましい騒音が入ってくる。二階から通りを見下ろすと、喧噪の中を大きな荷物を載せた自転車が通り過ぎ、色鮮やかなサリーを着た中年女たちが楽しそうにおしゃべりしながら歩いている。その横を野良牛が3匹ばかり、のろのろと生ゴミをあさっていた。いくらこの土地がイスラム教の色が濃いといっても、やはり多くの人間はヒンドゥー教を信仰している。ヒンドゥー教の聖なる動物は牛だ。ここでは人も動物も皆同じ顔をして堂々と歩いている。
その時だ。
机の上の携帯電話が鳴った。着信音は警察関係者からのものだ。月はこのまま電話を無視し続けるべきかどうか考えた。しかし、ナンバーディスプレイの番号を見て潔く諦めた。なんと相沢からだ。海外まで追いかけてくるとは、余程の急用なのか。仕方なく月は電話に出た。ぶっきらぼうにならないように振舞うのが大変だ。
「もしもし」
だが、受話器から聞こえてきたのは全くの別人の声だった。
「久しぶりだな、ヤガミ。さっき、市場であんたのことみかけたよ。妙なところで再会だな」
相沢ではない。月は警戒心をあらわにした。
「誰だ?」
「俺だよ、俺。Lと一緒に、ロサンジェルスまでわざわざ俺たちに会いに来ただろ?」
「まさか・・・」
「覚えていてくれた?メロの相方だよ」
マットだ。誰もが舌を巻く天才プログラマーを忘れるはずがない。相手は相変わらず人懐っこい調子だったが、月は眉根を寄せた。
「どうやって相沢さんの携帯を手に入れたんだ」
「そいつの携帯を手に入れたわけじゃない。俺の携帯を、あんたの上司のID情報に設定しなおしたんだ。こうでもしなくちゃ、電話に出ないかもしれないと思ってさ」
いつの間に相沢の番号など調べたのか。相沢からの電話なら、月は嫌でも出ざるを得ない。相変わらず、こういったところは抜け目がなかった。流石はワイミーズハウスのNo.3といったところだ。
「悪いが、Lは今ここにいないぞ」
「Lがいなくても、あんたがいればいい」
「要件は何だ。世間話したいわけじゃないんだろう?」
「電話じゃ話せない」
案の定だ。ただでさえアーメダバードはヒンドゥー系とイスラム系が小競り合いを起こし、先月も連続テロ事件が起きている。そこに首を突っ込むなど、冗談ではない。月は憮然とした。
「面倒なことに巻き込もうとしてるんじゃないだろうな。目下、退屈な休暇を楽しんでるところなんだが」
だが、マットは即座に切り返した。
「なあ、ヤガミ。俺、あんたに貸しがあったと思うんだけど」
その言葉に、月はぐっと詰まった。ずいぶん前のことになるが、テロ事件関連で、消されたビデオテープを復元するという困難極まりない仕事をマットに依頼したことがある。その時もマットは平気な顔をして、テープをあっという間に元通りに戻してしまった。原則として、情報を扱う人間は金銭のやりとりはしない。あくまで貸し借りが基本だ。借りがあれば必ず返す。それがこの世界のルールだ。貸しがあると言われては仕方がない。
月は、頭に叩き込んだアーメダバードの地図から人目につかぬ場所を瞬時に探しだした。その間、わずか一秒だ。
「わかった。一時間後にダーダハリ階段井戸の前でどうだ。あそこなら市街からそれほど離れていない」
アメリカ警察用語が返ってきた。
「テン・フォー(了解)。確かに、あそこなら安心して会えそうだ」